小説の森で - 9.誰に向かって書くのか?


「青い鳥のロンド」は、読者の感想にずいぶん差のある小説だった。感想に差があること自体は悪いことではないと思う。それは作品の幅というものでもある。
けれど、作者緋野の意図した肝心なものは、読む人すべてに伝わっていただろうか? 緋野の魂はすべての読み手に届いていただろうか? 届いた上での感想の幅だったろうか? 
・・・否である。
ではそれは、表現の拙さによるものだったろうか? 
・・・半分はそうかもしれない。が、半分は否だと思う。
それは恐らくこの作品が、女性の心理を主として描いていることに起因していると思われる。男性には共感できる心理的体験がないのだ。のみならず共感したくないという心理の働く男性も少なくないのかもしれない。真の幸福を求める女性の心理は、男性にとっては関心の薄い、あるいは耳の痛い、ひいては都合の悪いものなのかもしれない。
この作品は男女を含めた幸福を追求したもので、そんな偏狭なものではないのだけれど。


いずれにしても、「青い鳥のロンド」は、読者を選ぶ小説だ。
小説が読者を選ぶ・・・
ここで緋野が考えてしまうのは、「私は誰に向かって書いたのだったろう?」ということだ。


 小説は独白ではない。独白なら大学ノートにでも書きつけておけばいい。小説を書くということは、意図的に現実そのものとは別の世界を創り出すということであり、なぜそうするかと言えば、そこに誰かを招き入れたいから、つまり、読者を求めるということだ。
 
 作者は、この混沌たる世界の中から、自分だけが感じ取った主観的な世界を、一枚の透明なスクリーンのように漉しとって、小説という文章の中に展開する。自分というフィルターを通して整理・象徴された世界の中に生きてみようとするのだ。
だから、最初にその世界に招き入れられるのは、作者自身ということになる。

けれども、それだけでは終わらない。描かれた世界は独白と違って、必ず他の訪問者を、より多くの訪問者を求めるものだ。それは、「誰かの魂と繋がりたい」という、小説に潜んだ人間の根本的な欲望による。
 それならば、その訪問者は誰でもいいのだろうか? 多ければ多いほど? 

 確かに門戸はすべての人に向かって開けているし、総じて作者には、世界をこんなふうに見ている者がいるということを、より多くの人に知ってもらいたいという欲求があるだろう。
「青い鳥のロンド」の場合で言えば、緋野には、女性はもちろん男性たちにも広く読んでもらい、人間としての幸福・家族の幸福・日本社会の将来について、共に考えてもらいたいという願望があった。出版費用をカバーできるだけの多くの人に読んでもらえないと困るという切実な思いもあった。
それでも、よくよく心の奥を探ってみると、結局のところ、私がほんとうに自分の世界に招き入れたいと望んでいたのは、自分に似た魂を持つ誰かだったのだということに気がつく。私は、男性でも女性でもとにかく、魂の通う相手を探していたのだなあと。
それは私以外の作者でも、たぶん同じことだろうと思う。

 だから、作者は誰に向かって書くのかといえば、それは男だ、女だ、何十代だということではなく、不特定多数の、あるいは不特定少数の、魂の通う誰かなのだ。
ということはつまり、作者としては、ひたすら自己の世界を芸術的に描き出すことに専念すればいいということになる。
 
 特定の読者を念頭に置き、その読者層にアピールするように書くなどということを考え始めると、小説は駄目になるような気がする。緋野は一時期、人に読んでもらうからには誰に向かって書くのかを意識しなければいけない、そういうことにも敏感にならなければならないと思った時期があった。けれども、それは間違いだ。書くときは、あくまで、徹底的に、自分自身を発信することだ。
そうすれば、小説が自ずと読者を選んでくれる。その選ぶに任せればいい。 なべての人々の魂を呼び込む場合もあれば、片寄る場合もある。それでいいというのが、緋野の結論だ。

 ただし、どんな人が読者さんになってくれるだろうか? ということは一考の余地があると思う。緋野は「沙羅と明日香の夏」を書いた時、中高生にも読めるようにと、漢字その他の表記にずいぶん気を配った。読者を想像してみて多少の表記を変更することは、自分の世界に人を招き入れる者として、必要なように思う。
 
 ちなみに、文学賞の求めるものを意識して書くというもの、言わせてもらえば邪道だと思う。文壇は、作家という職業を生業にしている人たちのギルド社会だから、そこで目を引くのは、新鮮な素材・新しい技法・珍しい文体・斬新な構想・細工のかかったプロット等。
けれども、そこから入って捏ねくった小説は、生きた小説にはならない。
あくまで自分の内から突き上げてくるものを、どう展開すれば小説世界の中に完璧に描けるか、そのための表現方法を探るべきだと、私は思う。
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小説の森で - 8.小説の命

菊池寛がこう言ったことがあります。

「作品がうまいと思いながら心を打たれない、まずいと思いながら心を打たれることがある」と。

その言葉に接した時、それは結局どちらも優れた小説とは言えないということだと、私まず思っ

たのですが、それだけでは片付けられないような、ひっかかるものが感じられて、ずっと心に残

っていました。

 菊池は、芸術的価値を重視する文壇文学に対して、小説はもっと実人生と密接に交渉すべきだ

と、内容の生活的価値の重視を主張しました。そこで頭に浮かんでくるのは、もうひとりのテー

マ小説の書き手である芥川龍之介です。

芥川こそ、まさに芸術的価値を重視する作家でした。私は彼の羅生門を読むと今でも惚れ惚れし

て、ああ、一作でいいから、こんな完璧な芸術品を作り上げてみたいものだと思ったりします。

けれど菊池の言うとおり、その感動の主体はどうも、「上手い!」ということや、「場面の凄ま

じい美」にあるのであって、テーマの投げかけている主張は理解できるものの、なぜかその点に

心を揺さぶられる感じがしないのです。

 生活的価値を重視した菊池は、社会性のある素材を、簡潔平明な文体で、くだくだしい心理や

性格解剖などに道草することなく、現実的・常識的・具体的な思考をもって、読者が直ちに興味

の中心に入れるような小説を書きました。彼の小説は大衆の心を掴み、文学大衆化の先駆けとな

ったのです。

 けれど、菊池の作品もまた、真に「心を打たれる」と言えるだろうか? と、私には ? が

つくのでした。志賀直哉の作品と読み比べてみてください。違いが分かると思います。

 あれから何年、何十年もの時が経って、緋野は読む人間から書く人間に変わり、ようやく分か

りました。小説でも何でも、文学作品にとってもっとも大切なのは、そこに作家自身の生きた血

が通っているかどうかということだと。私小説という意味ではありません。作家の魂がそこに生

きていて、切ればどこかから作家自身の熱い血が流れ出してくるようなもの、ということです。

それが小説の命です。

 そう思って故人の言葉を思い出してみると、その意味することが、とてもよく分かります。鴎

外は、「どんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思ふ」と言い、漱石は、「徹頭徹

尾、自己と終始し得ない芸術は、空疎な芸術である」と表現し、ボーボワールは、「文学は読者

が作者の肉声を聞きとる瞬間に始まる」と言いました。みんな同じことを言っていたのです。


小説の森で - 7.小説の面白さ

「青い鳥のロンド」の出版で日々が慌ただしく過ぎ、はや一箇月にもなる。出版というのはいつも、いやな疲れを伴うものだ。それはたぶん、物書きとしての本来の努力とは違う努力を強いられるからだろう。それが長く続くと、私はいったい何をやっているんだろう? という、一種の鬱気分になる。だからきょうは少し小説の森に戻って、心を休めてこようと思う。


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 小説の森に朝陽が差しこんで、木々の梢に溜まった白露が美しく輝いている。それぞれの作家の魂のようだ。ああ、やっぱりここはいい。もしもこの森がなかったならば、人生はどんなに味気なく孤独なものだったろうか。この異形の森はまた、魂の救いの森でもあるのだ。

 人々が小説を好んで読むのは、そこに「面白さ」というものがあるからだろう。けれど、それがどんな面白さかは、一言で括れるものではない。「青い鳥のロンド」への読者評の違いの大きさを見るにつけ、そのことを考えざるを得ない。きょうはそのあたりを紐解いてみることにしよう。
小説の面白さというものを、いくつかあげてみる。


 1.共感・癒しの面白さ

 人は本来的に孤独な生き物で、独りが辛くて寂しいものだから、登場人物や小説世界に共感できるということはとても嬉しいことで、「自分だけではない」と感じることが面白さにつながる。緋野の知人には、小説に「救われた」と言う人もいた。太宰治や村上春樹のような、時代や世代の心性を代表したような作品がよく売れるのは、こういう面白さがあるためだろう。

 2.未体験の世界への興味

 例えば古いところでは、広津柳浪『黒蜥蜴』。平凡な生活においては理解しがたい、特異な人間の心理を解釈してみせる小説。湊かなえの『告白』などもここに入るだろうか。
そこまで特異でなくとも、数ある私小説や伝記的小説、ファンタジー、歴史物など、ほとんどの小説が持っている基本的な面白さはこれだろうと思う。その程度に違いがあるだけだ。

 3.詩的(美的)世界への陶酔とカタルシス
 
 小説は言葉を使った美術品であり、芸術によるカタルシスを旨とする、という明確な価値意識を持った作品群がある。元祖は森鴎外さん。『舞姫』以下の三部作がそれだ。近年では宮本輝の『泥の河』なども、鴎外の浪漫とは趣きが異なるけれども、やはりこの系列に属すると思う。
これらの作品の特徴は、もう圧倒的に悲劇であることが多いということだ。人は悲しみの多い生き物で、悲劇的な詩情に陶酔することには、自己の悲しみを和らげる作用がある。

 4.精神への刺激の面白さ

 小説世界が投げかけてくるものによって読者の精神の均衡が乱され、思わず自己や世界やその関係を見つめなおしたくなるという面白さ。芸術的なところでは深沢七郎『楢山節考』、近年では川上未映子『ヘヴン』などがそれに当たるだろうか。あとは、芥川龍之介・豊島与志雄・菊池寛など、新赤門派と呼ばれた人たちのテーマ小説がそれだろう。

 5.ストーリーのうねりの面白さ

 物語の複雑さと言い換えてもいいかもしれない。入り組んだ人間関係や波乱万丈の面白さだ。代表選手は、それはもうなんと言っても谷崎潤一郎だろう。「細雪」などそれしかない小説だと思うけれども、人は結局、そういう世間のごたごた話が好きなのだ。それが洗練された文体で書かれているから、ついつい読まされてしまう。職人的なもの書きだと思う。

 そういえば、谷崎と芥川との間で論争になったことがあった。谷崎が『饒舌録』の中で創作について、「嘘のことでないと面白くない。素直なものよりヒネクレタもの、無邪気なものより有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好く」と書いているのに対し、芥川は谷崎を、奇抜な筋にとらわれすぎると批判し、『文芸的な、余りに文芸的な』の中で、「小説の価値は話の長短や奇抜さで決まるものではない。・・・肝心なのは、その材料を生かす為の詩的精神の如何、深浅である。話らしい話のない小説は、あらゆる小説中、最も詩に近い小説である。最も純粋な小説である」と言っていた。私は芥川のいう詩的小説のほうが好きだが、さて、一般読者はどう感じるだろうか。
 ともあれ、ストーリーのうねりの持つ面白さを否定することはできないだろう。

 6.謎解きの面白さ

 謎というのはどうしても知りたくなるのが人間で、そのために次々とページをめくることになる。言うまでもなく推理小説・探偵小説の面白さはそれだ。これらの主眼は謎解きや推理だから、文学からは最も遠い小説だろう。最近は謎解きと人生観照を兼ねた中間的な小説が増えたようだけれども、謎解き・推理の比重のほうが高いければ、それらはやはり詩(芸術)にはならない。
 ちなみに緋野は、解かれないままに残る小さな謎というものが好きだ。この世界そのものが謎に満ちているように、解かれずに残る謎は、小説世界の奥行きを広げてくれるように思う。

 7.現実への興味

 山崎豊子さんと言えば、誰もが、ああ確かにと、理解するのではないだろうか。彼女の小説を、緋野はそれこそむさぼるように読んだ。そして、もっとも面白い小説は、もっとも現実に近い小説だという思いを強くした。しっかりした取材に裏打ちされたノンフィクション的小説には迫力がある。目に見える事実の奥に隠されている膨大な真実が、小説世界を通して手にとるように分かるというのは、とても面白いものだ。
 ただし、取材した事実に比重がかかりすぎると、それは小説にはならない。山崎さんの小説にも正直なところその傾向は感じている。『沈まぬ太陽』を読んだ時、彼女は小説家というよりも、基本的に記者なのだと思った。小説としては物足りないものがある。

 8.奇抜性・意外性への興味

 「夜は短し歩けよ乙女」という変わった小説が賞を取ったことがあった。奇想天外なありえない話と、単純なことをいちいち大仰に表現する、まるで大学生の言葉遊びを思い出させるような奇抜な文体で、500枚も書き抜いたあの饒舌には脱帽する。もちろん、奇抜だっただけではない。青春と言う馬鹿げた季節の面白みの中に、誰にも覚えのある恋の純情が、胸に届く作品だった。
 けれど、何ということもないテーマで、普通に書けば、きっと注目されなかったことだろう。話や表現の奇抜さを、人はやはり面白いと思うのだ。ラストのどんでん返しの手法なども、これに入るだろう。
 近年の小説はどんどんこの方向に傾いているような気がするが、私は、これは新しいというより復古だなと思って眺めている。江戸時代の南総里見八犬伝のような、戯作の方向だ。商業主義時代の小説大衆化は、結局ここに行き着くのだろうか。

9.作家その人への興味

その作家の感性・思考内容に刺激され、そこに面白みを感じるという、エッセイ小説などがその一つだろう。夏目漱石や、現代では万城目学さんの小説などもそれに当たるかもしれない。こうした、作者の主観を盛り込んだ小説は、武者小路が漱石の作品について指摘したように、読者が出来事から直接受ける主観より作者の主観のほうが優れている、もしくは特殊である場合にのみ成立する書き方である。作家その人の内面の魅力に負うところが大きく、底の浅い者がまねをして書いたり、主観の織り込み所を誤ったりすれば、読むに耐えないものになることだろう。

また日本文学の伝統であった私小説も、あれだけ読まれてきた大きな動機は、作家その人への興味だったのではないかと思う。かの時代の小説家たちには、己の事実を隠すことなく、大胆に、ありのままに、技巧を弄せず描くという、腹の据わったところがあった。岩野泡鳴などは、自己の生活そのものが芸術であるとまで言いきっている。けれど、作家たちは真剣に芸術だと思っていたようだけれども、これは読む側からすれば、人の生活の実態を覗くということであって、実はスキャンダル的な興味が大きかったのではないかと、私はひそかに思っている。
 それにしても、『兎にも角にもこれが人間現在の実情だ』と、我が身の真実を臆せずぶつける私小説。その振り回す鉄棒の打撃力には、震撼せざるを得ない。事実の重みが強烈に迫ってくる、恐るべき小説だ。
ただ、それは一方で、誰かを傷つけることがあるかもしれない小説で、緋野晴子には一生書けそうもない。

          
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ということで、小説の面白さの要素を挙げてみたが、まだまだ他にもあるかもしれない。大衆小説や中間小説の木々が乱立しているこの森に、文学の樹を探す、あるいは植えようとする時、それが読まれる文学であるためには、これらの面白さを文学の中にどう織り込んでいけばいいのか、それが私のもっとも悩むところだ。
 ともあれ、きょうは久しぶりに自分の場所に戻ってきたような気がして気分がいい。少しエネルギーが蘇ってきた。そうだ、小説は読まれるために書かれるのだから、「青い鳥のロンド」は、その読者さんたちの手に届けられなければならない。もう少し頑張ろう。

テーマ : 物書きのひとりごと
ジャンル : 小説・文学

大海に砂粒を投げる

文学小説を書いて発表するということは、まるで大海原に向かって、小さな砂粒を

投げ込むかのようなささやかな行為だけれども、ひとりの人間としての世界に対す

る存在証明なのだと思って書いてきましたが、その小さな砂粒を貝が拾って、それ

を核にして真珠を作ってくれることもあるようです。


 昨日、たまたまTVで教育系の番組を見て、はっとしました。そこでは「空気によ

るいじめ」が話し合われていたからです。

「空気によるいじめ」・・・ 6年前、私が「沙羅と明日香の夏」で取り上げたいじ

めの姿です。空気によるいじめは、いじめている側の自覚・罪悪感が非常に薄く、

現象としても見えにくいので、それと気づかれないまま深刻化し、自殺や引きこも

りの原因にもなっているようです。

 また、その「空気に流される」という現象は、単に子どもの世界だけのことではな

く、日本社会の現代病だと私は思っています。 年齢層によって幾分の違いはあ

るでしょうが、「空気を読む」ことが非常に大きな価値のように言われ、空気に逆

らう言動をする人が蔑視されたり疎外されたりするようになったのは、いったいい

つからだったのでしょうか? 少なくとも昭和の時代まではそうでもなかったように

思うのですが、気がついたら日本人はそうなってしまっていました。

特に若者たちは、言葉で自分の考えを伝え合うより、皆まで言わずに空気で会話

していると常々感じています。

「これ良くね?」と聞き、「ああ」とか、「いいんじゃね?」とか、「だよね」と答

え、「思う」という言葉は使いません。

ことの善悪に関わらずリーダー的な存在が場の空気を決め、その空気に逆らうよ

うな言動は、周りの全員から「空気読めよ」のひと言で一蹴されてしまうのです。

他人との関係が希薄になり、他人に対して臆病かつ不寛容な社会が形成されて

いるようです。多様性は生物の大原則であり、生存のために欠かせない価値です。

それを認めることなしに人類の発展はありません。このまま、自分の考えがはっき

り言えない、追随型の人間ばかりが増えていけば、日本はどんどん衰退の一途を

辿っていくでしょう。


 「沙羅と明日香の夏」は、生きることに迷った若者たちの魂の再生を描いた青春

小説ですが、その中に出てくる「空気によるいじめ」に教育界の三人の先生方が

頷いてくださり、推薦してくださいました。また200人ほどの先生方が購入してくだ

さって、「空気によるいじめ」という私の投げた砂粒を受け止めてくださいました。

けれどもその後のことは分からず、「空気」の問題はどうなったのだろうと思ってい

ましたら、昨日の教育番組です。

「空気によるいじめ」の問題が正面から取り上げられ、議論されていました。人の

精神を圧迫するのは、特別な誰かの暴力や嫌がらせ等の直接行為だけではなく、

人を疎外し、いじめを傍観・許容する大衆の空気であることに、やっとメスが入れら

れ始めたのです。その大衆の精神構造を分析することは、やがていじめ問題を超

えて、日本人の弱さの分析と、日本社会の未来の展望へと進んでいくでしょう。

進んでいってほしいものだと思います。

 とにかく、ああ、やっとここまで来たかと思うと、感慨深いものがありました。


 文学の掬い取れる真実はほんの小さなものです。その一作をこの世界に送り出

すことは、暗くうねる大海に光の砂粒を投げこむような、些細な抵抗かもしれませ

ん。それでも時には、どこかの貝が見つけて真珠を作ってくれることもあるのです

ね。それを願って、私はまた書いていこうと思います。

小説の森で - 6.書くことの第一義


 自分はなぜ書くのだろう? と心の底に問うてみる。

 私は作品をひとつ仕上げるごとに、その分だけ自分の中が整理され軽くなって、

この世が生きやすく楽しいものになっていくように感じてはいないか? 書くこ

との第一義は、つまりここにあるような気がする。書く者たちはきっと、みんな自

分のために書いているのだ。それがどんな種類の小説であろうと、結局はそうい

うことなのだろうと思う。かの文豪、森鴎外さんも、「僕はどんな芸術品でも、自己

弁護(自己主張)でないものは無いやうに思ふ」と仰っていた。文学だけでなく、

他の芸術においてもそれは同じことなのかもしれない。

 緋野の場合は、ずっと昔に拾った課題を何十年も胸の底に抱えたまま、未解決

のままに生きてきて、人生も下り坂に入った今頃になって、ようやく答えらしきもの

の姿がぼんやりと見え始めたように感じている。それが人生の折り返し地点で小

説を書き始めた理由だ。けれども、それを実際に小説の中に書き留めようとして

みると、答えは奇しくも茫洋と闇の中に霧散していくばかり。結局、小説を書くと

は、問うても問うても答えの出ない問いに、それでも答えを探し求める心の旅の、

軌跡を残すことなのだと思う。どこにどう辿り着くのか、その答えが未だ答えとは

言えないようなものであっても、小説は私の中にひとつの足跡をつける。その足

跡を得ることによって、私は明日の一歩を探せるような気がするのだ。その足跡

の上に立って眺めてみれば、視界はきっと今よりもう少し開けてくるはず。そう信

じて一作、一作、難儀な旅を続けている。

 
 では、小説を書くことの第一義は自分のためにあるとして、次に自ずと生じてくる

のは、そうして自分のために書いた小説を、他人に読んでもらいたいというのはい

ったい如何なる心理か? という疑問になる。

 つらつら考えてみると、それは結局のところ単純に、自分が描いた、自分だけが

見ている世界を、他の誰かにも一緒に見て欲しいという、ただそれだけに過ぎない

ような気がする。

 描かれた世界への共感やら感想やらは、実はたいした問題ではないのだ。読者

の精神に何らかの波紋を引き起こすことができれば、もちろんいっそう嬉しいには

違いないだろうけれども、それ以前にまず、書いて発表する者の心理の根底にあ

るものは、自分の目が捉えているものを他の誰かにも見てもらいたいという、ただ

それだけなのではないだろうか。それは人間というものの孤独が生む、宿命的な

願望なのだろう。小説に限らず文学というものは、人間の孤独から生まれ、他者と

の繋がりを求めて存在しているのだと、緋野は思う。


 そして、そのように書かれた作者それぞれの小説は、ちょうど今、この小説の森

を彩っている木々の花たちのようなものだろうか。一つとして同じ花はなく、そのう

ちのどの花がいちばん好きか、美しく見えるか、愛しく感じられるかは、見る人(読

者)それぞれの心の在りようによって違うもので、けっして順位のつけられるもの

ではない。これは詩歌の世界でも同様で、新聞の歌壇・俳壇を眺めてみればよく

分かる。四人の選者が十首ずつ優れた作品を選んでいるが、複数の選者に重複

して選ばれる作品は、四十首のうちせいぜい一首か二首。文学とはそういうもの

なのだろうと思う。

 けれどもまた、一見すれば形のよく似た花たちでも、生気の漲っている花か、水

不足で活気のない花か、はたまた造花かは、誰もが等しく見抜く。文学とはまた、

そういうものでもある。


 と、そんなことをとりとめもなく考えているうちに、森はもうすっかり日暮れにな

ってしまったようだ。熱い珈琲でもいただきながら、美しい夕日を眺めることにし

よう。

テーマ : 物書きのひとりごと
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

hinoharuko

Author:hinoharuko
銀河の旅人セイラです。私の見た地球人の姿と、それを描いた小説をめぐって、気ままなお話をしていきます。
私の本のご紹介・・・① 「たった一つの抱擁」(文藝書房)…この星の男女(夫婦)の不可解な生態を描き出した作品。 ② 「沙羅と明日香の夏」(リトル・ガリヴァー社)…神秘の奥三河を舞台にした、二人の少女のひと夏の経験。生きることの深奥を見つめた青春小説。(東愛知新聞社主催「ちぎり文学奨励賞」受賞)

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